essay & activity【1】
マイスタースクール構想は、実際的な芸術活動を通して、特化された文化圏構想を実現することに目的を置いています。 このessayは、その構想の実現に向けて、私たちが実際にアクションを起こしているドキュメント(実話)です。
建築・芸術学校(大学院)とマイスタースクールの設立を!
技の復権を目指して
新世紀初頭に、建築と芸術の場〈新世紀バウハウス〉を作りたい。
この構想は形を変えて15年前にも発表しました。バブルの全盛期でした。
「べらんめー。こちとら日本人だ。金はあってもそれにつぎ込むくらいなら目先の投資や開発、土地転がし、箱物建築天国。首長の獲得票数を箱物の大きさと数で勝負するんだ。」
日本全国喧噪のまっただ中でした。そして15年後、日本全国静かです。
「べらんめー。こちとら日本人だ。損の後始末で忙しいんだ。そんな余裕どこにもねー。おととい来やがれ。」
いずれの時代にも〈新世紀バウハウス〉は実現しませんでしたが4年くらい前から再び練り上げ、地方公共団体や民間の要請で数度基本計画を行いましたが、
途中で断ち切れました。この構想は単一地域で完成されるプロジェクトではありません。
そんななか、連載執筆の機会を頂きました。〈新世紀バウハウス〉構想を軸に建築や芸術について四国や瀬戸の地に何が出来るか、
そして将来をどの様な地域の個性を次世代に受け渡していくのかを、広く話し合っていける契機にしたいと考えます。
私は建築設計をして20年、その間さまざまな建築を設計してきました。中には、実現しなかった物も沢山あります。
いずれもその時々の私の考え方がイメージとなって具体的な建築を表現しますので逆にその建築を克明に見ることで、自分の有り様や社会的価値観が
どの様な物であったかを客観的に検証できます。何故なら建築は社会的所産であるからです。つまり、設計者は個人であると共に社会の代弁者でもあると
いう二面性があるからです。
設計をする前に、発注者側の条件もさることながら、その建築についてどの様な物がふさわしいかを提案する事も、設計の範疇に含まれます。
ジグソーパズルの様に、一つの建築が都市やコミュニティーを造る重要な鍵を握ることがあります。
用と美を兼ね備えた巨大な器が建築です。そして建築は机の上のまたスケッチブックの小さな白い紙面に描かれた絵から始まるのです。
時には難解な文章になったり、言葉の重複、時間経過の前後が有りますがその時々に質問に答えることでお許し願いたいと思います。
1. 建築の始まり
今日、私達は世界の情報を多様な形で取り入れて、価値ある豊かな生活や将来を、個として、あるいはそれを社会的所産として実現している。
歴史を紐解いて想像力を働かせれば解るように、いつも時代の価値観は多様な相を見せながら実はそれぞれが連続していて、その流れには必ず破綻点があり、
価値の軌道修正が行われて来た。一方で人類は、太古からその時代の記憶を地球上に歴史的な有形無形の遺産として刻み、記述してきた。
21世紀の夜明けを目の前にした今、今世紀の過去100年間を掘り下げ、21世紀の未来の100年間を見据えた海図に、
人類の未来の航路を指し示す時が来ている。
芸術や建築は、いつもその時代を取り巻く事物のあり様を、想像力豊かに表現し、その根底では時代の技術や産業を支え、一方では牽引してきた。
そして思想の自由と前衛の精神を醸造して来た。ある時代にとっては、それらが前衛という極めて純粋で直感的な概念を持ち合わせているが為に、
次世代の新しい価値を生み出したにも拘わらず、精神的な乗り越えが出来ず、混沌とした様態を呈する時期がある。
狭義な意味で今の日本がそうだと言えなくもない。
主に19世紀から20世紀にかけて、世界中で建築を中心に様々な芸術運動があった。
テーマは、工業化を土台にして、新しい未来の産業構造に立脚したデザインを敷衍することだった。つまり、建築や芸術のあり様を世界中が模索し、
発見し、デザインの実用化が実現したのだ。アールヌーボー、アールデコ、ゼセッション、ロシアンアバンギャルド、バウハウスなどである。
そしてこの潮流がもたらした遺産は、近代の社会全般をデザインする契機をもたらしたと共に、今にしてなお、現代の建築・芸術理論として有効なモチーフになっている。
日本では、その地理的な特異性から、世界の相(物質的、精神的な人間の営為が歴史的に表された事象)を独自に咀嚼した。
例えば、江戸の元禄文化等の様に、欧米とは違って歴史的なテンポが緩やかな中で、独自の文化体系が形成された。
しかし、ことさら世界の中の日本という構図を見る時期になって、日本の文化の織り目が明治を境に急速に変化した。もっとも、唯物史観のいう、
事象の変化と価値は相対的であることから、しごく当然の帰結だった。
以後、様々な歴史的転換期を経て今日に至っているが、上記した建築・芸術運動も、例に漏れず日本にもおおきな影響を与えデザインの解放のきっかけに
なった。逆に表現のタガがはずれて、デザイン公害や彫刻公害を起こすまでになっていることは、皮肉と笑っていられない一つの例である。
その背景には、現代の日本が持っていた個と全体のバランス感覚と、幅の広い価値の多様性を失い、価値観の単一集中化の傾向にあって、
スノッブな精神構造が見え隠れしている。
今世紀後半から、通信ネットがすさまじい勢いで進歩し、情報は時間と空間を超え、現実とイマジネーションの領界が解き放たれ、虚と実がうつろぎ始めた。
それは表現の可能性が著しく開かれたとも言える。一方で皮肉にも、国家が自らを見失い失速している現状と、本来の日本に養われてきたコミュニティーや
地場産業と密着した繊細で高度な技能が、急速に消滅している現状とが時期を同じくしているのである。
都市は自然を渇望し、田園地方は自然を切り刻んでいる。瀬戸内海の地域も、その例にもれず秩序のない俯瞰を見せている。都市や集落の形成には、
初源的な祖型(アーキタイプ)がある。安定して整合性のある図と地の関係の中には、必然的に条件づけられた構造が見て取れる。
しかし、必ずしも人間の営為がそれと連動しているわけではない。